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青春の残像をいまだ追っている

青春小説が好きで、色々と探しては読んでみてる。とりわけ部活モノよりも、ダラっと流れていく何でもない日常の中で感情の機微を丁寧に描いた作品が好きだ。
最近よかったもの、短編集でどの話もよかった↓

豊島ミホ/檸檬のころ

檸檬のころ (幻冬舎文庫) 

あらすじ
保健室登校の女友達とのぎこちない友情。同級生と馴染めない音楽ライター志望の偏屈な女子に突然訪れた恋。大好きな彼とさよならすることになっても、どうしても行きたかった、東京――。


人生は選択の連続って誰かが言っておるけど、選択の意味や重さを自覚するのは高校生くらいなのかな。何でもない日常の中でだって、たくさんの選択を迫られる。それが恋であれ、友情であれ、将来のことであれ、何かを選ぶということは、何かを選ばないということだ。選んだ先にあるもの、選ばずに消えた道の先にあったかもしれないもの、煩悶する登場人物の心におこるほんの小さな揺らぎが波紋をつくって伝わってくる。やりきれない思いや、感傷や、幸せ、自分は体験したはずのないたくさんの感情まで、自分の色んな感覚に引っかかってくる。自分はまだそれを「若いね」なんて笑えない、青春ゾンビだ。


と、青春関連で言えば、バンBaseBallBear「17才」があまりに良い。

増補改訂完全版「バンドBのベスト」(初回限定盤)(DVD付)

それはこんな歌詞から始まる。

17才 It's a seventeen
檸檬が弾けるような日々
生きている気がした気持ち
それがすべてだ


檸檬が弾けるような日々。自分が17才だった5年前を思い返してみて、檸檬が弾けたかというと果たしてそんな記憶はないはずなのに、グッと刺さってくるのはなんでだろうなぁ、青春ゾンビだから?17才、何してたっけ。瞬間の感傷を自覚して青春と履き違えるみたいなズルいことばっかりしてた気がする。と思ったけど今だって同じか。爽やかさや輝きに、遥か離れたところから唾を吐きかけるような行為だって、今にしてみればそれもまた逆説的に青春とか言っちゃえると思うと、何したって許されちゃう感じするな。許して欲しいわけじゃないんだけどな。夏の暑い日、窓を全開にしてカーテンが捲れ上がったり、廊下は涼しーとか、制汗剤の香りとか、そういえば古文のワークの提出はまだしてない気がする。今からでも間に合うだろうか。


自分はいつまで青春の残像を追い続けるんだろう。というか、青春ってなんだ。わからないけど、たくさんの選択の末にある今は、それなりに、楽しい。

シンプルノットローファー

 ここ数週間探していた本を今日やっと買うことができた。なかなか見つからなくて躍起になって少し遠出した。本棚に目当てのタイトルを探す時はいつもソワソワする。ようやく見つけたそれは、手に取るとやけに重かった。ような気がしたが、気のせいかもしれない。帰りの電車で早々と読んでしまった。

「シンプルノットローファー/衿沢世衣子

シンプルノットローファー

 女子校を舞台にした連作短篇集で、なんの変哲も無いそれぞれの日常が描かれている。ある作品の主人公が、ある作品では脇役だったりして、1クラス分の登場人物がきちんと出てくる。描かれる日常は、あまりに呆気なくて、正直に言うと、特別に面白いというものでもないのかもしれない。それでも自分はその空気感が好きで、ともすれば憧れさえしてしまう。

 ガールフレンドは女子校出身で、自分が興味津々にそこでの生活について色々と聞いては「夢見すぎだよ」と笑う。「女子校の女子は女子じゃない」なんて言う。けれど、たとえそれが事実だとしても、それすら含めて、神秘的だなと思ってしまうし、やっぱり憧れてしまう。女子校に過度の神秘性を感じる自分を、彼女はいつも少し呆れている。

 つまりはそういうことで、少なくとも自分は、そこに勝手に意味を与えてしまうのだ。そこで過ごす人には当たり前の何も無い日常に、何も無いということの意味を与えて、やがて憧れてしまう。きっと、この本の中で起きていたことも、ガールフレンドが過ごした日常も、それは単なる日常であり、日常の中の一コマであるのだが、きっと自分は彼女ら以上にそこに意味を与えてしまうのだ。

 電車を降りると、雪は止んでいたけれど、寒さはますます強くなって顔に張り付いた。本の感想を反芻しながら歩く自分の姿と、雪を踏む音だけが響く夜のその寒さを重ねて、小説みたいだなとか思ったが、また何か意味を与えようとしている自分に気がつき、この時ばかりは自分でもさすがに少し呆れた。

けれど今日は、それくらい寒かったのだ。

金田一耕助の魅力

ところで、ここしばらくの間、ひそかに金田一耕助リバイバルの気運が高まってやしませんか?気のせい?でも、金田一耕助シリーズDVDコレクションが発売されてましたし…。それに、長谷川博己主演で「獄門島」がリメイクされたし…。そういえばつい先日は犬神家の再放送がテレビでやっていましたし…。うむ、やはり、波が来ている…!

僕はこの金田一耕助シリーズが大好きでありまして。そこでまたとないこの機会に、その魅力を切々と語りたいなと思った次第であります。

推理作家 横溝正史が生んだ稀代の名探偵、それが金田一耕助。彼の出てくる作品としては「犬神家の一族」や「八つ墓村」が非常に有名ですね。ぼさぼさの髪の毛に貧相な体躯、よれよれの着物によれよれの袴を合わせた冴えない男として描かれる彼ですが、解決した事件は数知れず。金田一耕助シリーズの魅力は、この男、金田一耕助の魅力に他ならないと僕は思うわけです。

犬神家の一族 金田一耕助ファイル 5 (角川文庫)

 本シリーズに特徴的なのが事件の陰惨さ。田舎の因習や血族の因縁が事件の根幹を為していることが多く、そこには長年に渡る悲しみや憎悪がうごめいています。そんなおどろおどろしい背景を持った凄惨な事件の中を軽々と飛び回るのが金田一耕助なのです。言ってしまえば、彼は謎にしか興味がない。謎を解くことだけが彼の全てなのです。

そんな金田一も、謎を解き終えるといつもひどい憂鬱を覚えます。人の罪を暴くことをもって身の生業としている自分に、嫌悪感を抱き、孤独感を覚えてしまうのです。しかし、こうした孤独から彼を救ってくれるのは、皮肉なことにまた新たな別の事件であり、新たな「謎」なのです。金田一は謎を求めてさすらい続けます。謎だけが彼を満たしてくれるのです。彼は謎の中だけでしか生きられないのかもしれません。

そんな探偵としての人間味の無さと、そのことに悩む人間くささ。事件にうずまく人々の感情と、そこを飛び回る金田一耕助。これら二面性が彼の魅力であり、シリーズの魅力なのではないでしょうか。

金田一耕助は最後の作品「病院坂の首縊りの家」にて事件を解決したのちに、日本を出てアメリカへとふらり旅に出る様子が描かれています。それが金田一に関する最後の記述です。金田一耕助はいまどこで何をしているのか。謎の中でしか生きられない金田一。「謎」が消えることのない世の中。いまもまたどこかで謎を求め続ける金田一を、想像するより他にありません。

 

何者でもない少女達のススメ

聡明なうら若き乙女達が、強い自意識とそれに追いつかない現実の間で揺れる姿が好きです。

……あ!ちょっと待って!ブラウザを閉じないで!小説の話ですから!(だとしてもアウト?いやいや…)

小さな世界のなかで、漠然とした希望と不安を抱きながら、毎日うまく生きていくことに必死な姿は痛々しくもあり、どこか力強い。葛藤が美しくなるまでにかかる時間は、きっと分かり合えるより遥かに長い。そんな小説を二つほど。


終点のあの子/柚木麻子」より「フォーゲットミー、ノットブルー」

 

終点のあの子 (文春文庫)

 

これはもう自分にとってはすごく思い入れの深い小説で、手巻き式の時計のネジを回すかのごとく、数ヶ月に一度、定期的に読み返しては、吹き抜けた春一番を身に浴びたような感傷と爽やかさに悶えています。この小説には4編の話が収められているのだけれど、そのなかでもとりわけ自分が好きな作品「フォーゲットミー、ノットブルー」について。

あらすじ
プロテスタント系女子高の入学式。内部進学の希代子は、高校から入学した奥沢朱里に声をかけられた。海外暮らしが長い彼女の父は有名なカメラマン。風変わりな彼女が気になって仕方がないが、一緒にお昼を食べる仲になった矢先、希代子にある変化が。


女子校の話でして、そこは自分にとって全く無縁の世界なんですけれど、情景がすごくありありと伝わってくる。人間関係の微妙な揺らぎと、その中における自分の立ち位置の不確かさ。今の自分じゃない特別な誰かになりたくて、けれどなれなくて。憧れが憧れのまま手に届かないものだと気づいた時、それは敵意に変わってしまうのかな。無自覚に他人を傷つけたり、傷つけられたり、そのことに気付くのは、いつだってほんのちょっとだけ遅いのかもしれない。


もうひとつの作品はこちら。

「ラジオ ラジオ ラジオ!/加藤千恵

 

ラジオラジオラジオ!

 

こちら舞台は北海道より旭川市(作中では明言されていなかったかも)。決して田舎じゃないけれど都会には程遠い。そんな閉塞感が物語を一貫している

あらすじ
地方都市に住む高校三年生のカナは、一刻も早く退屈なここを出て、東京の大学に行って、将来はテレビ局で働きたいと思っている。「東京はここよりも、インターネットの中の世界に近い気がする。早く本物の場所に行きたい。」ある日、カナは 地元ラジオ局のパーソナリティー募集をフリーペーパーの広告で見つける。以前から声が好きだった友達のトモを誘って面接を受けたところ、ラジオのパーソナリティーとして、週に一回、「ラジオラジオラジオ!」という番組を持つことになる。だが進路決定が近づくにつれて、二人の未来への夢は次第にすれ違い始めて……。


まず、設定がすごくエモーショナル。ここじゃないどこかへ誰かが連れて行ってくれるのを待っている。自分にはもっと相応しい場所があるはず。そんな勘違いも甚だしい思い込みさえ、自分は周りと違うと思う根拠になってしまう。見えてるものが全てで。というより、自分に都合の良いことしか目には写らなくて。そんな身勝手さは忌々しくもあり、それでいてどうして理解できてしまって嫌いになれないのは、身に覚えがあるからだろうか。それとも、そんな自分がまだどこかにひっそり隠れているからかもしれない。


そんなわけで、ここに小説を二つ紹介したわけなのだけど、共通して描かれているのは、何者にもなれない何者でもない少女達の姿。漠然とした不安はいつだって尽きることはなくて、でもいつだって思い描く姿があるわけで。乙女達が孤独な戦いのなかで傷つきながら成長していく姿は、やっぱりしなやかな強さをたたえて美しいのです。

 

よろしくどうぞ

前々からブログみたいなものは書いていたけど特に誰かに公開するようなこともなく、もはや掃き溜めみたいになっていて、久しぶりに覗くと発酵もとい腐敗していたので新しく始めようと思った次第であります。

まずは何か一冊、本について書こうと思ったのはいいのだけれど、じゃあ何を選ぼうかとしばし悩んでしまって、危うくブログの開設が頓挫するところだった。

結局悩んだ末に、伊坂幸太郎の砂漠について書くことにしました。

砂漠 (新潮文庫)

初めて読んだのは中学生の時で、描かれている大学生活の自由さがものすごく魅力的だったのを覚えています。というか、いまでも魅力的なんだけれど、もしかして世の大学生は実はみんなこんな感じの生活を当たり前のように送ってたりするのでしょうか、(当方、大学四年目)。

続けます。

最近改めて読んでみてもやっぱり北村たちの日常は魅力的で、自分の生活と比べてはニヒルな笑みを浮かべたりなんかもしたけれど、たぶん彼らの生活の魅力は小説で描かれるようなイベントの有無だけじゃないって今になってわかった。

大学生になって思うのは、あんなにも自由だと思っていた大学生活も、実際には色々な事情が絡み合っていて、思うようにいかないことも少なくないということ。大学生にもなれば、ある程度、現実が見えてくる。自分にできることが思ったよりも少ないということに気づいてしまう。けれど、北村たちが、どこか自分たちの限界に勘付きながらも現実を受け入れることに抗う姿は、意外に軽やかだ。「俺がその気になれば砂漠に雪を降らすことだってできる」西嶋の言葉を北村たちがどこまで信じていたかは分からない。でも実際に行動を厭わない彼と、それに真剣に付き合う北村たちの日常は誰がどう見たって充実している。結局、行動しなきゃなにも始まらないんですよね。無力感にかこつけて、楽しいことがないなんて言うのは、そういう楽しみや充実した生活を放棄しているのと変わらない。それはたぶん、小説の中の話とか、現実とか、きっと関係ないんだろう。昔読んだ時にはそんな風には考えなかったし、そもそもわからなかったけど。落ち込むより、嘆くより、卑屈になるより、負け戦になるかもしれないことを知ってなお動ける軽やかさを、青春と呼ぶのかもな。なんて思ったし、そういう姿勢を羨ましくも感じた。

 

伊坂幸太郎の小説は、ウイットな会話が多くてすごく好きです。とりあえず、挨拶がてら、最初の記事は、こんなところで。